<引用元>
画像:琉球朝日放送報道制作部「ふじ学徒隊」より
【ひた隠す「ひめゆり部隊」の偉業】
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☆ 沖縄のひめゆり部隊の真実をいまこそ学ぼう!
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皆さん!こんにちは
第2次大戦後「73年」そろそろ本当の事を知っても良いのでは!
【ひめゆり部隊の偉業】
▼悲劇性ばかり強調される「ひめゆり部隊」の真の活躍
昭和20年6月18日…
沖縄での地上戦も限界となり、陸軍病院に解散の命令が出された。
隣の壕まで解散命令を伝えなければならないが、
伝令の兵士は、米軍の機銃掃射の嵐に、すぐに逃げ戻ってきてしまう…
そのとき、
「真玉橋と金城が行ってまいります!」
と、陸軍病院第2外科婦長を務めていた真玉橋ノブと、
その部下の看護婦が声を上げる。
そして、
当時20代だった若き2人は、勢いよく壕を飛び出し…
米軍の激しい射撃のなか、ほふく前進で隣の壕に行き、
見事命令を伝えたのだ。
結婚すれば部隊への召集が免除となる中、
「私はやがてお国のために戦死する身」
そう言って、彼女は多数持ち込まれた縁談の話を聞こうともしなかった…
男性顔負けの行動力と自己犠牲の精神で負傷兵の看護に当たり
沖縄戦を生き抜いたひめゆり部隊の一員:真玉橋ノブは、
戦後も看護の仕事にその生涯を捧げ・・
沖縄の看護レベルを日本最高レベルにまで引き上げた立役者となったのだ…
学校じゃ絶対に教えない「ひめゆり学徒隊」の本当の偉業
今、「ひめゆり部隊」というと、その“悲劇性”ばかりが強調して
伝えられています。
しかし、実際のところ、彼女たちは「祖国のために」と自ら戦争に志願し、
自分の命を失うことさえ厭わずに看護を続けた、気高い乙女たちでした…
さらに、戦後は”感染症のデパート”と言われるほどひどい衛生状態だった沖縄から、
米軍の支援のもと感染症を消し去った際にも、彼女たちは大きく貢献…
その成功体験を学ぼうと、アジア、アフリカ諸国から
1万人以上の医療・看護関係者が沖縄を訪れているのです…
沖縄出身の元海上自衛官:惠 隆之介による「真実の沖縄史」
ダイレクト出版:丸谷事業部 萩原 敬大
(清水編集)
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